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郷原宿(塩尻市)

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取材:2015年7月5日
HP update:2021年10月26日

 郷原(ごうばら)宿は、善光寺街道が中山道洗馬宿で分かれて最初の宿場です。慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿北国街道を結ぶため、善光寺街道(北国脇往還)を整備したときにできました。すでに存在していた集落が宿になったのではなく、郷原の元の集落は奈良井川の東岸の上野地籍にあり、宿駅の整備に伴い、同じ川の西岸の住戸地籍にあった堅石集落とともに、元和5(1619)年頃に現在の場所に移して宿づくりがされました。
 郷原宿は、洗馬宿と村井宿の中宿であったため、助郷(すけごう)宿であり、本陣脇本陣はありませんでしたが、大名などは山城屋や問屋に休泊したとされます。また伝馬(馬による荷物運び)、助郷(人馬の応援提供)が整備されたのは元禄3(1687)年ころからのことです。当初は、奈良井川畔の人々などを集めて形成され23軒ほどでしたが、徳川4代将軍家綱のころには、約40軒、江戸後期には73軒と発展しました。ちょうどこの頃、郷原宿は大火にあい、再建後の家々は間口が5~6間と広く、奥行きも街道の両側それぞれに40間、そのまた奥に60間を耕地に割り付け、整然としたものとなりました。
 屋敷割りがよく行われ家々は、切り妻本棟造りで「雀おどし」がついた切り妻が街道に面しており、威風堂々とした外観を与えています。また、街道と家の間に前庭があり、樹木が植えられて美しい街並みとなっており,他の宿場町と異なる景観を創っています。各家には屋号が表示されています。民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦氏は随筆の中で郷原宿の美しさを「宿場全体が見事な一個の作品だと」絶賛してます。
 また宿は、桔梗ケ原台地の一角で水位が低く、深い井戸を掘らなければならず、各家で井戸を設けることが困難であったため、20m近いつるべ縄深井戸を3基掘って共同で使用、管理しました。当初は郷福寺(きょうふくじ)境内、お茶屋、問屋付近に作ったと推定され、現在は、問屋付近の井戸が復元されています。1970年「郷原の区画割わりと古井戸」として、史跡に指定されました。

郷原宿・看板
善光寺道名所図会
善光寺道名所図会・郷原宿

○ 筑摩 郷原  村井まで1里半、南北8町ほどの道路です。民家が多く、宿場の入口に唐松の大樹が2株あります。南東の方角(巽の方)に1町ほど列をなして松が茂り、朱色の鳥居をこえると稲荷の祠があります。郷原の産上神です。 郷福寺は、桔梗山白馬院と号し、真言宗京知恩院に属します。本堂本尊は大日如来、観音堂の正観音は、聖徳太子の作といい、信州百番のうち28番の札所です。薬師堂・聖天堂・山門・惣門などは焼失して仮殿になっています。  「野を横に馬ひきむけよほとゝきす はせを(芭蕉)」という句碑があります。  原新田村の入口に分れ道があり、石標に、「右京いせ道、左伊奈諏訪道」と書かれています。松本の方から来る人の分かれる場所です。上方のほうから善光寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい、甲州(山梨県)の元善光寺へ参詣し、そこから塩尻宿へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。ここに神明宮の森があり、祠の右脇に立石があります。

善光寺道名所図会・郷原宿

桔梗が原は、四方の山が遠くにある平原の地で、今は田んぼがひろがり空地はみえません。この辺の河原で、矢の根石(黒曜石を削ってつくった先人の石器)を捨う事があり、雨の後などに多いといいます。ほかの地でもありますが、この桔梗が原のものは上品とされています。

善光寺道名所図会・郷原宿

(注)郷原宿は、慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政が、中山道洗馬宿と北国街道を結ぶために、北国脇往還を整備したときに設定した宿場の一つで、洗馬宿と村井宿の中間にあります。慶長19年5月当時の総家数は23軒でした。幕末の安政2年(1855)に72軒・236人となっています。桔梗ケ原に位置して地下水の低い郷原宿では、飲用水確保のために深井戸を堀り共同で管理してきました。深さが20メートルもある深井戸の場所は、下問屋南・郷福寺入口・お茶屋付近の3ケ所です。  郷福寺には、明治13年(1880)6月25日に、明治天皇巡幸のさいに御小休の石碑が建っています。本堂南側に、高さ63センチメートルの自然石に刻んだ芭蕉の句碑があります。碑面上部に芭蕉翁とあり、芭蕉の「奥の細道」のなかの句が刻まれています。碑陰に「安永四(一七七五)未十月十二日 連中五尺庵露白」とあり、当地の江戸時代の俳人で菅江真澄とも親交のあった俳人青柳露白の建立したもので、当地方の芭蕉の句碑としては古いものです。

「善光寺道名所図会」の情報・データについて

  • NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ「善光寺道名所図会」

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087001

  • 国立公文書館 デジタルアーカイブ「善光寺道名所図会」

https://www.digital.archives.go.jp/img/4323948

「郷原宿」案内パンフレット(郷原宿��を愛する会作成)

郷原宿を南から北に写真で記録しています。

郷原宿:街道南
郷原宿:街道南
郷原宿南側入口看板

慶長19年に開かれたこの宿場は区画割が整然となされており、また水に事欠いた地であったことから用水路が発達しました。古井戸とともに郷原宿の町並みは塩尻史跡に指定されています。

郷原宿開設400年記念タイムカプセル

郷原宿開設400年記念タイムカプセル

郷原宿・南

郷原宿の南入口には休憩ができるスペース(ミニパーク)があります。

ようこそ郷原宿へ

ようこそ郷原宿へ 善光寺街道(北国脇往還道)が整備されてから約四百年になります。 慶長十九年(一六一四)、時の松本領主小笠原秀政公により、郷原宿が制定されました。郷原宿は二度の大火に見舞われ、現在ある家屋敷は安政五年(一八五八)以降のものです。 この土地郷原街道と呼んでいます。 鍵の手や枡形がなく、ほぼ直線的な道筋です。 この火の見櫓から桔梗山郷福寺まで三町三二間(約三八五米)が郷原宿です。 家屋敷と裏の田畑が整然と区画割(市史跡に指定)されています。 桔梗ヶ原台地にあるため水は緊急の課題でありました。 奈良井川上流から引水した用水は街道の中央と東と西の屋敷内外に二本ずつ計五筋の用水路として現在も活用されています、 また飲料水として二十メートル近い深井戸を掘り(市の史跡に指定されている古井戸がある)井戸無尽をつくり共同で管理、運営していました。  再建された街並みは、ここを昭和26年ころ訪れた柳宗悦をして「宿場全体がまことに見事な一個の作品だといってよい」と絶賛されたものとされています。切妻本棟造りと平入り横屋造りの調和のとれた家屋敷、各家屋敷に屋号が掲げられ、前庭があり季節、季節の

郷原宿マップ

街道は、ほぼ直線的な道筋で、区画割が整然と整備されています。 桔梗山郷福寺から火の見櫓(やぐら)まで3町(ちょう)32間(けん)(約384メートル)が郷原宿で、家々には屋号が掲げられています。

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郷原宿から南方・洗馬宿方面を望む

郷原宿から南方・洗馬宿方面を望む

郷原宿:街道東
郷原宿:街道東
郷原宿南口の火の見やぐら

郷原宿はかつて2回の大火にあっています。 ・文政4(1821)年郷原宿が大火となり、堅石村も延焼しました。 ・安政5(1859)年にも、郷原宿は大火にみまわれて全焼し、堅石村も南半が類焼しました。

「菓子屋」

「菓子屋」

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売家

残念ながら売家に出ている家屋もありました。 おそらく「京屋」か「酒屋新宅」です。

郷原宿は前庭にイチイの木が植えられている家屋敷が多くあります。

郷原宿は前庭にイチイの木が植えられている家屋敷が多くあります。

「まるしょう」

「まるしょう」

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「木曽屋」

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郷原宿の家屋敷と田畑は、裏続きに区画されています。

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「田中屋」

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井戸用手押しポンプ 郷原宿創設時代のものではなく、近代のもの。 しかし、もう稼働はしていません。

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「和多屋」

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「和多屋」 建て替えで玄関は街道に面していない。

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東西に走る路地 大火に伴う新割で宿場町としては比較的広い。

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「大坂屋」

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「一文字屋」

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「住吉屋」

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郷原宿を流ながれている用水路は、5本あります。 ・表の川 ・東 ・西ナカセンゲ ・東 ・西ウラセンゲ

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「酒屋」の南側には、西ウラセンゲから東ウラセンゲに街道下を繋ぐ用水路が顔を出しています。

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「酒屋」

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「酒屋」全景

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左「木屋」、右「酒屋」

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「木屋」

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「木屋」

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「木屋」の街道筋にある老松

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「川上屋」 宿場に「川上屋」が二軒ある。こちらの川上屋は「上」をシンボルマークとしています。

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「川上屋」

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「萬屋」

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「萬屋」

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東大小路(スミヨシ小路)

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路地を挟んで、もう一軒「萬屋」が続く。

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「萬屋」

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「住吉屋」

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「川上屋」

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「穀屋」(旅籠)

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「穀屋」(旅籠) かつて旅館だったためか住居の前に広い駐車場があります。

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「川上屋」

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「川上屋」

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「川上屋」 りっぱな雀返し

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「切り妻本棟造り」 幕末の安政5(1859)年の大火の後に再建された町並みは、かつて柳宗悦(1889 日本民芸運動の先駆者)が「宿場全体がまことに見事な一個の作品だといってよい」と絶賛しました。 古い建物は、緩い勾配の切り妻屋根で、妻側を正面とする本棟造。 「雀おどり」あるいは「雀返すずめかえし」と呼ばれる棟飾りが威風堂々とした外観を与えています。 また家屋の前面には庭木が植えられていて、他の宿場町と異なる景観を創っています。 現代の建物にも、妻入りの構造は引き継がれています。(出典:ウィキペディア)

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「川上屋」

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「川上屋」

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「川上屋」

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「伊勢屋」(旅籠)

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「伊勢屋」(旅籠)

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郷原宿の石碑

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郷原宿の石碑

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郷原宿の石碑 昭和60年9月 郷原区建立

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郷原簡易郵便局 かつては「上問屋」だった場所

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「上問屋」 宿場中央右側の白壁の塀をめぐらせた家が上問屋の赤羽家です。 そこだけ塀を後退してあり、道が広くなっています。 郷原宿には問屋が二軒置かれ、下問屋と半月交代で勤めていました。 昔、上問屋前には高札場があり、隣宿までの駄賃銭が掲示されていましたが、今はありません。 その代わりに大きな自然石の「郷原宿」と刻んだ標石が置いてあります。

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「郷原簡易郵便局」は、かって問屋だったところです。

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「問屋」 簡易郵便局は旧問屋の建物を利用しています。

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「郷原簡易郵便局」(問屋)

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「郷原簡易郵便局」(問屋) 庭も整備されています。

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「越前屋」

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「越前屋」

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「大黒屋」

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「大黒屋」

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「大南ぼたんや」

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「大南ぼたんや」

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「米屋」

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「米屋」

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「米屋」

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上総屋(旅籠)

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上総屋(旅籠)

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「あめや」

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「あめや」

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「お茶屋」

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「ささや」

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「ささや」

この地の呼び名(桔梗ヶ原)もなった花が、家々に植えられています。ちなみにキキョウは、塩尻市の市花です。

この地の呼び名(桔梗ヶ原)もなった花が、家々に植えられています。ちなみにキキョウは、塩尻市の市花です。

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「京屋」

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「京屋」

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「枡屋」

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「枡屋」

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「飛鳥屋」

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「飛鳥屋」

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「櫛屋」

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「櫛屋」

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「亀や」

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「亀や」

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郷福寺の入口・街道筋には火の見やぐらがあります。

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郷原宿がこの地にできてから約400年になります。

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明治13年地方巡行時の御膳水の井戸

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「郷原の区画割と古井戸」  郷原宿は、北国脇往還西街道の中継宿として、慶長十九年(一六一四年)に生まれた宿場の機能である。 屋敷割、道路割、治水割、耕地割がはっきりと現存している。 宿の形は他宿のように鍵の手など屈曲はないが、南端には奈良井川から上げた用水路が曲折して、宿の真中と東西の町裏を二筋ずつ灌漑用水として、計五筋が北流している。 屋敷割は、安政五年(一八五八年)の大火後の再建の家が五~六間以上の間口を占めているところから、他宿よりもゆったりとしている。 奥行をみると、街道の両側を東西に宅地、用水、宅地、農道、用水、農道と区画割されている。  現在の建物は、安政五年の大火後再建されたもので、他宿の横屋造りに対し雀返しのついた切妻が街道に面しているのが特徴で、家の前と街道の間に庭があり、そこに樹木が えこまれた特殊の趣を添えている。  また、宿場の共同生活の基礎と平等への第一歩が始まったといわれる古井戸は宿の中央にある。   塩尻市教育委員会

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郷原宿北側に位置し筑摩三十三ヵ所観音霊場の二十六番札所。境内には明治13年地方巡行の時の御駐輦記念碑と御膳水の井戸、本堂には明治天皇の御座所の御小休の間があります。又、本堂前には安永四年(1775)に詠まれた芭蕉の句碑があります。 寺の門柱と参道。参道の先には総門。

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参道入り口付近には、この宿で3つある古井戸のひとつがあって、木製の蓋屋があります。 この古井戸は明治天皇の御膳に供されました。

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「明治天皇御前水」  明治13年6月25日午後3時10分郷原駅に駐蹕 。巡幸日記に雨道のならひにて道はかゆかず郷原につくとある。御先発官は宮内大書記官山岡鉄太郎(鉄舟)外。供奉人員は太政大臣三条実美公参議伊藤博文外400人をこえる。玉座は郷福寺本堂を御小休御座所として現在も当時のままに保存。この井戸は宮内省より明治陛下の御膳水御用相勤め候事とあり御聖蹟を後世に残すため平成6年7月改築。大工棟梁は郷原赤羽張爾氏である。

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明治天皇松本地方御巡行日程 明治22年6月 16日 宮城発 23日 入信、下諏訪泊 24日 午前七時御発輩、今井村で御板輿に召し換えられ塩尻峠へ、峠で野点、11時頃塩尻駅着、川上清方で御昼食、原新田平林茂樹方御小休、信楽村中田貢方にて御小休、松本神道事務局に着御(四柱神社) 25日 午前7時帯勲者9名奉拝、八時出発、松本裁判所、師範学校、開智小学校へ、午後2時10分行在所御発輩、村井駅中村宗次郎方御小休、郷原駅郷福寺御小休、洗馬駅志村巌方御小休、午前6時半本山駅小林吉夫方着御 26日 本曽福島宿へ

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お寺の駐車場前に郷原宿の高札場が復元してあります。

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「高札場」 郷福寺駐車場横に、会員、区民の協力で建立(平成25年度地域発元気づくり支援金事業)裏面は郷原宿の紹介。

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高野山真言宗 桔梗山郷福寺 「人生に寄り添う」お寺に。 お檀家さまの仏事を執り行うことはもちろんのこと、子どもから大人まで、日常のあらゆる場面でお寺にお越しいただけるように、様々な行事を行っています。

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郷福寺 寺号標・裏面

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明治13年地方巡行の時の御駐輦記念碑

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「信州筑摩観音霊場第二十六番札所」  本寺は中世桔梗ケ原の中央、池の坊という地にありましたが、天文年間に武田氏の兵火にかかり、堂字から記録まですべて焼失してしました。 慶長十七年になって憲快法印により、当地に移り、桔梗山郷福寺として中興されました。 その後、延宝四年(一六七六)中興、第三世快秀法師の時、京都大本山智積院(真言宗智山派)第七世能化運敞僧正により伝法、以後直末となりました。 文政四年(一八二一)郷原宿の大火の類焼し、堂塔や記録をすべて失ってしまいました。 しかし文政六年庫裡、嘉永七年(一八五四)本堂に続き、宝蔵、薬師堂、土蔵、総門が復興をみました。 近年は成田山分尊奉安の不動堂、薬師堂が再建され、筑摩三十三ヶ所観音霊場第二十六番札所も復活し、参詣者が多くなっております。  現在は高野山真言宗総本山金剛峯寺末となり、節分会、大般若会、不動尊春秋大祭、施餓鬼会、お薬師様大祭と文化展などを年中行事としています。

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薬師堂

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参道脇に並ぶ庚申塚や三十三夜碑など

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この薬師堂には、中央に薬師瑠璃光如来を安置し、右に聖観世音菩薩、左に弘法大師、馬頭観世音菩薩を祀っています。

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延命地蔵菩薩 子安地蔵菩薩 子育地蔵菩薩

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弁財天堂

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郷原宿にある建物で、最とも古いものは、約150年前に建たてられいます。郷福寺本堂をはじめ数軒が現存しています。 本堂には明治天皇の御座所の御小休の間があります。

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境内の芭蕉句碑は安永4年(1775年)10月12日に五尺菴青柳露白(郷原宿の住民、俳人、漢方医、)によって建てられたもので、元禄2年(1689)、松尾芭蕉が奥の細道行脚の折、黒羽(栃木県大田原市)から殺生石(栃木県那須町の那須湯本温泉にある伝説の石:九尾の狐が石に封じられても悪行を働いた為、玄翁和尚により石が粉砕された)を見学に行く途中で読まれた「野を横に馬曳む計よ郭公」の句が刻まれています。 また、境内には郷原宿で3箇所あった井戸の1つがあったとされ"郷原の区画割と古井戸"として昭和45年(1970)に塩尻市指定史跡となっています。 宗派:高野山真言宗 本尊:大日如来 信州筑摩三十三ヶ所観音霊場第26番札所(札所本尊:聖観世音菩薩)

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松尾芭蕉が奥の細道の旅に出立される前年、元禄元(1688)年に木曽路を上って更科の姨捨山に行く途上、善光寺街道を歩かれました。 街道には多くの芭蕉句碑があり更科紀行にも記されています。 郷福寺境内(本堂前右手)に「野を横に馬曳ひきむ計けよ郭公ほととぎす」と詠まれた芭蕉の句碑があります。 (野の向こうでほととぎすが鳴いている。そちらに手綱を向けてくれまいか。)

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本棟造りの庫裏

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郷福寺には、“いぼ神様かみさま”が祀つられています。 祠の前の御影石を拾って、いぼに擦りつけると良いそうです。 全国的にいろいろな説があります。郷福寺にある鎮守稲荷大明神の祠の中には、御影石がたくさんあります。何いずれにしても信心しんじんからくるもののようです。

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慶長19年に開かれたこの宿場は区画割が整然となされており、また水に事欠いた地であったことから用水路が発達しました。

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郷福寺は高野山真言宗の寺院で、慶長17(1612)年僧憲快により中興ちゅうこうされたと伝えられています。 明治13(1880)年6月天皇の巡幸があり御小休所となりました。 お休みになられた玉座は当時のまま保存されています。 毎年2月の節分会には多くの老若男女が豆まきに集い賑わいが見られます。

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塩尻市コミュニティ・バス 「堅石上町」停留所

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屋根の棟飾りに特長がある切妻本棟造(きりづまほんむねづく)りは、塩尻や松本地方に多く見られます。 棟飾りは「すずめおどり」、「すずめ返し」と呼ばれています。

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切り妻本棟造りの建物

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塩尻市コミュニティ・バス 「弁財天前」停留所

郷原宿:街道西
郷原宿:街道西
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郷原宿・北から北方の村井方面を望む

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「助郷(すけごう)宿」 洗馬宿と村井宿の中宿であったため、本陣・脇本陣はなかったが、大名などは山城屋や問屋に休泊したとされる。 また伝馬(馬による荷物運び)、助郷(人馬の応援提供)が整備されたのは元禄3(1687)年ころからのことである

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塩尻市コミュニティ・バス 「堅石上町」停留所

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「下堺屋」

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「加賀屋」

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「塩屋」

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「山本屋」

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「若松屋」

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「堺屋」

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「京や」

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「山本屋」

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「綿屋」

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「和多屋」

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「和多屋」

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「蔦屋」

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「油屋」

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「仲町」

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「下問屋」 「山城屋」から数軒先の左側。本棟造りの家が下問屋の赤羽家です。 問屋役は上問屋と下問屋が毎月交代で務めた。

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「下問屋」 郷原宿に多い特徴的な建築様式は切り妻本棟造りです。 幕末の安政5(1859)年の大火の後に再建された町並みは、かつて柳宗悦(1889 日本民芸運動の先駆者)が「宿場全体がまことに見事な一個の作品だといってよい」と絶賛しました。 古い建物は、緩い勾配の切り妻屋根で、妻側を正面とする本棟造。 「雀おどり」あるいは「雀返すずめかえし」と呼ばれる棟飾りが威風堂々とした外観を与えています。 また家屋の前面には庭木が植えられていて、他の宿場町と異なる景観を創っています。 現代の建物にも、妻入りの構造は引き継がれています。

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松尾芭蕉が奥の細道の旅に出立される前年、元禄元(1688)年に木曽路を上って更科の姨捨山に行く途上、善光寺街道を歩きました。 街道には多くの芭蕉句碑があり、更科紀行にも記されています。 郷福寺境内(本堂前右手)に「野を横に馬曳む計よ郭公」と詠まれた芭蕉の句碑があります。(野の向こうでほととぎすが鳴いている。そちらに手綱を向けてくれまいか。)

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「下問屋」に宿場時代の古井戸が残っており、横に説明板があります。 郷原宿がある桔梗ヶ原一帯は水が乏しく、飲み水にも事欠くありさまで、宿場内に三つの共同井戸がありました。 これはその一つで、他は「お茶屋」付近と郷福寺前にありました。郷福寺前のものも残っています。 郷原の古井戸 標柱と説明板市指定史跡郷原宿の区画割と古井戸 昭和45年1月13日指定

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「郷原の古井戸」  郷原の古井戸は、郷福寺境内、お茶屋付近、そしてこの問屋付近の三ヶ所にあったといわれる。 地下水が非常に低いため深井戸を掘ったが、これの維持管理には大変な費用がかかり労力を要した。 村では十数戸が一組となって井戸の頼母子講・無尽講などをつくり費用を捻出し、共同作業で井戸ざらいや釣瓶縄作りなどの管理作業を行った。 そして井戸端に水神様を祭り清浄な場として、清潔に取り扱うことを誓い合った。  郷原宿は善光寺参りお伊勢参りなどの旅人で賑わったか旅人もこの深井戸の水の恩恵に浴した。  この古井戸は、郷原宿の昔の深井戸の面影を遺している。  塩尻市教育委員会

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郷原宿には共用の古井戸ふるいどが3基あります。 ここは桔梗ヶ原の乏水性台地で水位が低く、各家で井戸を設けることが困難であり、20m近いつるべ縄深井戸を3基掘って共同で使用し管理しました。 当初、郷福寺境内、お茶屋、問屋付近に作ったと推定され、問屋付近の井戸が復元されています。 1970年「郷原の区画くかく割わりと古井戸」市史跡に指定されました。

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「俵屋」

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「中村屋」

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「田中屋総本家」

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「山志屋」

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「こうや」

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向かい(東側)の「郷原簡易郵便局」(問屋)

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「若松屋」

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「山城屋」(庄屋)

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「山城屋」 正式な本陣や脇本陣のなかった郷原宿では、松本領塩尻の大庄屋で、山城屋の屋号を持つ赤羽家がこれを務めていたようで、地元の人々は山城屋を本陣と呼んでいます。 本棟造りの堂々とした構えです。

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「赤城屋」(旅籠)

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「赤城屋」(旅籠)

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「木曽屋」

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「若野屋」

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「玉屋」

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「宇寿井」

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「福寿屋」

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「吉野屋」

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「森本屋」

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「上穀屋」

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消防分団分署前の火の見やぐら

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塩尻コミュニティ・バス 「第1部詰所前」バス停

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桔梗ヶ原には古くから玄蕃之丞(げんばのじょう) という古狐がいたと言われています。 桔梗ヶ原の原野で大活躍しただけでなく、周辺の村々へも出かけて悪戯を行いました。 時には、部下の狐を集め大名行列のまねをして人を騙したと伝説にあります。 人々は玄蕃之丞を玄蕃稲荷として祭っていのす。 夏には、市民祭りとして玄蕃祭りが行われています。

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「大坂屋」

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「槌屋」

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「田中屋」

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「扇屋」

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「俵屋」

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塩尻コミュニティ・バス 「郷原上」バス停

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「くるまや」

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「川本や」

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「丁路や」

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郷原宿・南端から洗馬祝方面を望む 郷原宿のある塩尻市は、多数の街道の分岐点があります。(5つ) ・善光寺街道 ・中山道 ・東5千石街道(塩尻上町、中挟) ・西5千石街道(洗馬) ・三州街道(伊那街道)

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