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北国西脇往還
(北国西街道・善光寺街道)
街道・宿場
北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)は信濃国に存在した脇往還で、長野県のほぼ中央部を南北に19里20町(約80キロ)、12の宿場と3つの峠で結ばれた、古くからの庶民の道・信仰の道です。
洗馬で中山道と分かれた後、松本城下を経て山間地に入り、街道最大の難所である猿ヶ馬場峠を超えて善光寺平の南端(稲荷山宿・桑原宿)に至り、丹波島で北国街道に合流します。中山道と北国街道を連絡し、松本藩や松代藩、善光寺へ向かう道のひとつとして整備され、当時は賑わいを呈しました。
「善光寺道名所図会」があり、松尾芭蕉の「更科紀行」はこの道の紀行文です。この Web は、北国西脇往還の宿場町を中心に、写真により往時の様子を偲ぶとともに、現在の様子を伝えます。
郷原宿(塩尻市)
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取材:2015年7月5日
HP update:2021年10月26日
郷原(ごうばら)宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿場です。慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善光寺街道(北国脇往還)を整備したときにできました。すでに存在していた集落が宿になったのではなく、郷原の元の集落は奈良井川の東岸の上野地籍にあり、宿駅の整備に伴い、同じ川の西岸の住戸地籍にあった堅石集落とともに、元和5(1619)年頃に現在の場所に移して宿づくりがされました。
郷原宿は、洗馬宿と村井宿の中宿であったため、助郷(すけごう)宿であり、本陣・脇本陣はありませんでしたが、大名などは山城屋や問屋に休泊したとされます。また伝馬(馬による荷物運び)、助郷(人馬の応援提供)が整備されたのは元禄3(1687)年ころからのことです。当初は、奈良井川畔の人々などを集めて形成され23軒ほどでしたが、徳川4代将軍家綱のころには、約40軒、江戸後期には73軒と発展しました。ちょうどこの頃、郷原宿は大火にあい、再建後の家々は間口が5~6間と広く、奥行きも街道の両側それぞれに40間、そのまた奥に60間を耕地に割り付け、整然としたものとなりました。
屋敷割りがよく行われ家々は、切り妻本棟造りで「雀おどし」がついた切り妻が街道に面しており、威風堂々とした外観を与えています。また、街道と家の間に前庭があり、樹木が植えられて美しい街並みとなっており,他の宿場町と異なる景観を創っています。各家には屋号が表示されています。民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦氏は随筆の中で郷原宿の美しさを「宿場全体が見事な一個の作品だと」絶賛してます。
また宿は、桔梗ケ原台地の一角で水位が低く、深い井戸を掘らなければならず、各家で井戸を設けることが困難であったため、20m近いつるべ縄深井戸を3基掘って共同で使用、管理しました。当初は郷福寺(きょうふくじ)境内、お茶屋、問屋付近に作ったと推定され、現在は、問屋付近の井戸が復元されています。1970年「郷原の区画割わりと古井戸」として、史跡に指定されました。
善光寺道名所図会
「善光寺道名所図会」の情報・データについて
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NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ「善光寺道名所図会」
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087001
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国立公文書館 デジタルアーカイブ「善光寺道名所図会」
郷原宿を南から北に写真で記録しています。
郷原宿:街道南
郷原宿:街道東
郷原宿:街道西
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