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松本宿(松本市)

井川宿(間宿)
【出川番所跡】
 ここに戸田氏時代の初期に17年間、番所が置かれました。 水野時代には藩領であった塩尻組は、享保11(1726)年戸田氏が入封すると幕府領になりました。 幕府領となった塩尻に隣接している村井と出川に番所が設置されました(岡田にも設置)。 番所では米穀・塩・麻荷・材木などの物資の出入りや人改め(特に女性)や馬の通行などを監視しました。 寛保3(1743)年に、幕府領は松本藩が預かりことになりました。 そこで、翌延享元年に番所は水野時代の場所に戻すことになり、村井と出川の番所は廃止されました。 (出典:城下町探訪21 2009/8/20)

【出川の一里塚跡】
 出川は、村井宿にあった一里塚からほぼ1里のところにあたり、ここにも一里塚が設けられていました。一里塚は、徳川家康が秀忠に命じて慶長9(1604)年に江戸の日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に榎えのきを植えた塚を築かせたことから、全国に広がっていったといいます。植えられた木は松の場合もありました。出川の一里塚の跡は、村井の方から来ると田川に架かる柳橋やなぎばしの手前の右手にあって、標柱と石碑が2基たっています。
(出典:城下町探訪21 2009/8/20)


【中田家】
 江戸時代に出川組の名主や大庄屋を務め酒造業を営んだ中田(なかた)家は、その住宅2棟が松本市の重要文化財に、庭園が長野県名勝に指定されています。住宅の一棟は、御殿とよばれる書院造りの建物で、藩政時代には藩主の遠出のさいの小休所になり、また、明治13(1880)年の明治天皇巡幸のさいにも小休所になりました。
 貞享年間に諏訪・高遠領内から良材を求めて建築されたと推定されています。もう一棟は明治23(1890)年に新築されたもので、本棟造(ほんむねづくり)の大規模なものです。間口・奥行きとも10間あり、軒が高い瓦葺かわらぶきの豪壮な造りです。柱には欅(けやき)の良材が使われています。
 庭園は広さ587平方メートルで、池には鶴島・亀島があり、中央部に石組みの滝を配置し,そのほかの石の配置も堂々としています。築山つきやまには楓かえで、榎(えのき)、杉、松などの樹木が植わり、水・石・樹木の調和がみごとな庭です。
御殿の建築と同時期の作庭とみられていて、貞じょう享きょう年間の池泉ちせん廻遊かいゆう式庭園の姿を今に伝えています。昭和44年に復元工事がなされました。
(出典:城下町探訪21 2009/8/20・『新編 松本のたから』)


 
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信楽村役場跡 1874年(明治7年)10月23日に筑摩県筑摩郡両島村・出川町村・並柳村・平田村・野溝村・笹部村・高宮新田村が合併して信楽村となった。その後、1876年(明治9年)8月21日 に信楽村は長野県の所属となり、1880年(明治13年)8月25日に信楽村が分割して両島村・出川町村・並柳村・平田村・野溝村・笹部村・高宮村となった。

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豪壮な本棟造りの母屋 本棟造の現在の母屋は、明治23年(1890)に新築されたものです。本棟造は、江戸時代中期以後この地方の上級民家として流行した建築様式ですが、その最も発達した大規模のものです。良質の欅(けやき)材をもって柱立てをし、軒高く瓦葺きで、その平面は間口・奥行きとも10間(約18m)の方形で、書院造の御殿の東側に接続しています。軒が高く豪壮な建造物で、同じ本棟造りの馬場家住宅主屋とはまた違った美しさを見ることができます。(出展:松本のたから・松本市教育委員会)

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中田家住宅(松本市重要文化財・昭和44年7月4日指定) 所在地:松本市出川2-23-4 所有者:個人

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長野県名勝:中田氏の庭園 松本市重要文化財:中田家の住宅 指定年月日:庭園 昭和54年3月22日、住宅 昭和44年7月4日 概要:中田家は江戸時代には出川組の名主役を勤め、役宅にふさわしい庭園を備えた上級民家を構えていた。江戸時代中期からは酒造業を営み、旧態を今日に伝えている。 庭園は約578平方メートルの広さに設計された本格的な平庭式池泉回遊様式の庭園で、江戸時代前期の築庭と推定される。松本藩戸田家儒者木澤天童はしばしばここに遊び、『鶴亀日記』に庭園の美を讃えた一文を遺している。また、明治天皇の北国御巡幸の際の御小休所としての由緒も深い。 住宅は江戸時代元禄頃の様式を一部に残している低い長板葺きの書院と、これに接続した明治23年(1890)に新築された軒の高い瓦葺き本棟造りの母屋からなっている。 建造物の南面に、書院にほぼ正対して庭園が築造されており、これらが同時代の様式を遺して共存していることは貴重である。(平成6年8月1日・松本市教育委員会)

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明治天皇信楽御小休所碑

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明治13年(1880)明治天皇北国御巡幸に際し、中田家住宅が御小休(おこやすみ)所となった。 お供の者が庭の池で魚釣りに興じてしまい、遅れた。魚が入れ食い状態になった事が理由で、10日も前から鯉に餌を与えなかったためとの書物がある。

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指定名称について 庭園と住宅は一体のものとして、昭和44年に「中田家の庭園と住宅」という名称で市重要文化財に指定されました。その後、昭和54年に庭園部分が「中田氏庭園」として長野県名勝に指定されたため、住宅部分は市重要文化財「中田家住宅」と改称されて現在に至っています。

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文人の称えた庭園 庭園はこの二棟の南にあり、御殿と前後して築造されたものと思われ、随所にこの時代の特徴が見られます。広さ約587平方メートルで、池と築山が主体となり、池には鶴島と亀島の二島が設けられ、各々に石橋がかけられています。中央部には石組みの滝、築山があり、堂々たる立石が各所に配されています。また楓(かえで)、榎(えのき)、杉、松などで美しい樹林も作り、林泉配石に要を得た、趣のある美しい庭園です。江戸時代には文人墨客が訪れることも多く、松本藩戸田家の儒者木澤天堂はしばしばここに遊び、この庭園の美を称えた「鶴亀日記」を遺しています。 中田家の住宅二棟と庭園は、同家の歴史を背景として持ち、また庭園と建物とが一体となって共存している点で大変貴重です。江戸時代から明治時代にかけての街道筋の上級民家のあり方を知る上での重要資料です。(出展:松本のたから・松本市教育委員会)

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歴代城主も訪れた御殿 中田家に残る家譜には、天和・貞享年間(1681~88)に火災にあい、諏訪・高遠両藩内から良材を求めて建物の普請(ふしん)をおこなったとの記録があります。御殿と呼ばれる書院造の建物は、このときのもので、貞享年間(1684~88)頃の建築と思われます。城主の小休所、また明治天皇の御小休所はこの建物の庭園に面した座敷が用いられました。この建物は、こうした特別な機会のための、いわば離れの座敷としての性格を持つものです。 (出展:松本のたから・松本市教育委員会)

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古い歴史をもつ中田家 中田家は中世の終わりから善光寺道沿いの現在地に居住し、江戸時代には出川組の名主や大名主を務め、かたわら酒造業を営んでいました。したがって藩政時代は役宅としての構えを整え、庭園を営み、一般民家としてはその規模においても、構造においても優れたものを持っていました。中田家の住宅は、瓦葺本棟造(ほんむねづくり)の母屋と、これに接続する御殿とよばれる書院造の建物からなり、庭園はその南側に築造されています。 江戸時代には藩主の鷹狩りの際などの小休(こやすみ)所となったり、明治13年(1880)には明治天皇北国御巡幸に際し、御小休(おこやすみ)所となったこともありました。 (出展:松本のたから・松本市教育委員会)

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信楽一里塚跡標柱 洗馬より数えて四里目で傍らには南無阿弥陀佛題目塔と天保十三年(1842)建立の念佛供養塔があります。

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