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松本宿(松本市)

松本宿_05・横町~元原町
塩尻市の洗馬宿で中山道から分かれた道は、村井宿・出川(いでがわ)と来て、松本城下に入ります。松本城下の経路は、博労町・本町と北上して大手橋の手前で東におれ、中町を東に進み、北へ向きをかえて女鳥羽川にかかる大橋を渡って東町に入ります。しばらく東町を北上して和泉町いずみまちから安原横丁(やすはらよこちょう)を通り萩町(はぎまち)で城下をぬけました。
三の丸を迂回して町人町を通行しています。
松本の宿は、博労町(ばくろうちょう)から安原町(やすはらまち)を宿場としていました。旅籠は、主に東町(ひがしまち)にありました。松本町は千国街道や野麦街道などの起点でもあり、中馬の発着地として各地から様々な物資も集まり、各地へ運ばれていく、交通運輸や商業活動の中心地でした。
松本の宿の北には岡田宿があり、山越えにかかり、刈谷原(かりやはら)峠を越えて会田(あいだ)宿に至り、さらに立峠(たつとうげ)を越えて、青柳宿、麻績(おみ)宿を過ぎ、猿ヶ番場(さるがばんば)峠を越えると善光寺平に入ります。
その後、稲荷山宿を経由し篠ノ井で北国街道と合流します。さらに北上して丹波島(たんばじま)宿を経て善光寺にいたるのが善光寺道の道筋です。

(城下町探訪 37 2009年12月10日)
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【本立寺小路】 (ほんりゅうじこうじ) 松本市中央3丁目11番3号 旧中町上ノ丁から本立寺の山門にいたる参道であった。 慶長末年、小笠原秀政の母の菩提寺と定めたが、明治五年の廃仏毀釈で廃寺となった。 伊織霊水は本立寺境内にあたる。

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【本立寺小路】 (ほんりゅうじこうじ) 松本信用金庫中町支店の敷地内緑地

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山家小路の由来 山家小路石柱東町の成り立ちは天正十五年(1587)と 伝えられ 三丁目の区分は大正三年四月である。 山家小路の名称は慶長十八年(一六一三)と記録にある。 信府統記に昔は紺屋町と言い、中比鍛冶町といい、今は山邊小路というとある。 山辺への出口の町である。 (松本市公式観光情報ポータルサイト 「新まつもと物語」から)

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山家(やまべ)小路の入口にある碑

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【二ツ井戸小路】(ふたついどこうじ) 松本市城東1丁目5番 「城東二丁目」信号交差点南西側カド、魚万の向い この小路は、二十四小路の一つで享保年間の絵図(享保十三年)によれば、親町東町から分岐し、捨堀の南の木戸との間である。 小路の長さは二十三間、幅は一間四尺であった。 ここには冷水の井戸が二つ設けてあったことから、小路の名前となった。 また、木戸の内側には番所があり、番人が詰めていた。 ※この碑は東町二丁目町会によって建てられたものです。

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【上馬出し】(かみうまだし) 馬出しは、城門の前に人馬の出入りを敵に知られないように築いた土手の事である。 上馬出しは、北門馬出し郭から和泉町へ抜ける通りをいう。 尚江戸が上手になるので、城下町の北が上馬出しになり、東門馬出しから東町に抜ける通りが、下馬出しである。

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【東町】(ひがしまち) 松本市城東2丁目1番17号城東公園 (東町バス停の横) 善光寺街道に沿う東町は、松本城下の中心、親町三町の一つで、町名は城の東側に位置することに由来するという。 「松本大略往来」には宿場町として栄えた様子が、「東町ハ諸国之旅人木銭宿、旅籠屋商人定飛脚之泊宿」と記されている。

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【観音小路】(かんのんこうじ) 松本市城東2丁目8番12号 (セブンイレブン和泉店から1ブロック南に行った交差点の駐車場カド) 和泉町から分岐する二つの小路の一つ。 和泉町より大安楽寺の観音堂に通じる道であったので、この名がつけられた。 大安楽寺は真言宗の寺で、観音霊場信濃百番・三十三番札所めぐりの第一番札所となっており、歴代城主の祈願所であった。

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観音(かんのん)小路 遠くに大安楽寺の観音堂に通じる道であったので、この名がつけられた。 大安泉寺は真言宗の寺で、観音霊場信濃百番、三十三番札所めぐりの第一番札所となっており、歴代城主の祈願所であった 。

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【常法寺小路】(じょうほうじこうじ) 松本市北深志2丁目888先(2丁目5番9号付近) (「下下町」の一本南の通り、セブンイレブン和泉店から西に行くと、右手に見えてくる。) 山伏の寺、常法寺がこの通りの東側下々町の角にあったことに由来する。 明治になってからは小路入口の町屋の屋号をとって「あぶらた小路」とも呼ばれる風情ある小路。

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【安原町】(やすはらちょう) 松本市北深志2丁目4番1号徳若菓子店前 (宮坂徳若菓子店の前の四つ角、北東カドにある。) この辺りは古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていた。 小笠原貞慶が天正十年に深志城を回復し、深志の地を松本と改め、同十三年に城下町の町割りを行った。 善光寺道に沿って造られたこの町人町は「安佐端野原」の前後二字をとって安原町と名付けられた。

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【中ノ丁】(なかのちょう) 松本市旭2丁目2番7号フォーレス21(アパート)の前のカド (国道143号旭町小学校前の信号を西に曲がり、歩いていくと、「東ノ丁」の次に、左側に見えてくる。) 城外武家屋敷の一町名。 萩町の東に萩町に並行して東へ天白町、中ノ丁、東ノ丁と三筋の通りがあった。 中ノ丁はその真中に寛永十九年(一六四二)に命名されたという。 「信府統記」には「中ノ丁南北百六拾六間余、家数西ヶ輪二拾軒東ヶ輪三拾一軒、此町東西小路二ヶ所アリ」とある。 中の町とも書く。

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【天白町】(てんぱくちょう) 松本市旭2丁目7番天白神社東側 (天白神社の東側、道路をはさんだ敷地の中に立っている。) この町にある天白社には、天正年間に松本城に入った石川数正が、城の鬼門よけとして出身地岡崎より勧請したという伝承がある。 水野氏の時代になって、ここに城外侍屋敷が造られると、この天白社にちなんで町名がつけられたという。

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【天白神社】 本殿は松本城と同時期の建物。他は大正12年改築。 祭神 誉田別神(ほんだわけかみ) 倉稲魂神(うかやみたまかみ) 由緒 天正十八年(1590)泉州堺より入部した石川和正は松本城の築城に取り掛かり城の鬼門の地に当る丑寅(東北)のこの地に天白道場を開き道場内に八幡様とお稲荷様をお祀りしました。 その後石川氏改易後すっかり荒廃してしまいました。 水野氏時代になるとこの一帯には下級武士の屋敷町がつくられました。 享保十二年戸田氏のとき岡宮神社の社人がこれを見かねて復興の願いを出して許可されました。 そして付近一帯の下級武士の氏神様として信仰され奉仕されるようになりました。 境内には多くの石灯篭等が奉納されていますがこれは城下町一円の商人等が寄贈したもので稲荷信仰がいかに深かったかを示しています。

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天白神社は松本城の北東鬼門に位置にある。石川数正が信仰していた天白道場をこの地に開き、その鎮守神として八幡稲荷を勧請したと言う説もある。

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天白神社の稲荷

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萩町の木戸、番所、一里塚跡 萩町(はぎまち) この通りは善光寺道と呼ばれ、旅人や物資を運ぶ中馬の行き交う道であった。 道の左右に萩を植えて垣根とし、侍屋敷を遮ったので、萩町の名がつけられた。 水野忠直が慶安のころに板塀に改めたといわれるが、ゆかしい町の名は今に伝えられている。

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【元原町】(もとはらまち) 松本市桐1丁目4番58号 (元原公民館前) 明治以後の市制の発展にともない、城下町の外側にも新しい町々が形成された。 元原町もそのひとつである。その名の由来は、古くから元原と呼んでいたのによる。 原名は歌枕名所の「浅葉野」に関係するといわれている。

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