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北国西脇往還
(北国西街道・善光寺街道)
街道・宿場
北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)は信濃国に存在した脇往還で、長野県のほぼ中央部を南北に19里20町(約80キロ)、12の宿場と3つの峠で結ばれた、古くからの庶民の道・信仰の道です。
洗馬で中山道と分かれた後、松本城下を経て山間地に入り、街道最大の難所である猿ヶ馬場峠を超えて善光寺平の南端(稲荷山宿・桑原宿)に至り、丹波島で北国街道に合流します。中山道と北国街道を連絡し、松本藩や松代藩、善光寺へ向かう道のひとつとして整備され、当時は賑わいを呈しました。
「善光寺道名所図会」があり、松尾芭蕉の「更科紀行」はこの道の紀行文です。この Web は、北国西脇往還の宿場町を中心に、写真により往時の様子を偲ぶとともに、現在の様子を伝えます。
洗馬宿(長野県塩尻市)
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取材:2015年11月1日
HP update:2021年10月19日
洗馬(せば)宿は中山道(中山道六十九次)にある宿場町です。日本橋から31番目の宿場町であり、また、北国西脇往還(別称:北国西街道、善光寺道)の起点でもあります。
慶長18(1613)年に、下諏訪宿から小野宿・牛首峠経由で贄川宿に至る旧中山道が廃止された翌年、塩尻峠経由の路線が新たに中山道として設定された際に、塩尻宿や本山宿と同じ頃新設されました。当時の洗馬は、上の段を大怒田、下の段を新町と呼び、これらの村や近郷から人々を集めて宿場造りがされました。その際、宿の南には新福寺(明治4年廃寺)と上神明宮、宿北に下神明宮が置かれました。天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によれば、洗馬宿の宿内家数は163軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒で宿場内人口は661人、伝馬は50人50疋でした。
宿場内の施設として注目されるのが貫目改所で、中山道では板橋、追分そして中山道の中央地点に当たる洗馬宿の3カ所に置かれました。貫目改所では、改役人・帳付・秤取の役人がいて道中の荷物の貫目を検査し規定以上の貫目に対して超過金の取り立てなどを行いました。
昭和7(1932)年の大火で宿の大部分が焼失してしまいましたが、史跡としては、細川幽斎にまつわる伝説の肱懸松(ひじかけまつ)、中山道と善光寺街道の分岐点の分去れ道標・常夜灯石燈籠、木曽義仲伝説の邂逅の清水(あふたのしみず)、願い事をかなえてくれるという言成(いいなり)地蔵尊などの史跡があります。

歌川広重/木曾海道六拾九次之内・洗馬
善光寺道名所図会
![]() ○筑摩 洗馬 洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里30町です。京都から江戸まで69宿のうち、洗 馬は39宿にあたります。およそ6町(約650メートル、1町(丁)は60間・約109メートル弱)ほどの宿場通りです。多くの大名たちが参勤交代などのときに荷物の目方を改める役所が置かれているのは、東海道の府中のようです。そもそもこの洗馬宿は、木曽の深山幽谷をのりこえてきて、桔梗が原の広野に出る最初の地です。木曽の喉にあたる重要な場所で、繁昌していて、遊女なども大勢います。洗馬宿本陣の百瀬氏と志村氏の林泉は中山道にも珍しいといわれています。珍しい石や木がある枯山水は、訪れる旅客も多く、休泊して詩歌を遺したりしています。 | ![]() 「脇本陣・志村家の林泉の園」 洗馬宿本陣の百瀬家と脇本陣の志村家は広大の敷地を有し庭園の素晴らしさから「善光寺道名所図会」の中で「中山道に稀な名園」と紹介されていましたが鉄道の開通と火災によってその姿が失われました。 |
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![]() 「本陣・百瀬家・林泉の園」 洗馬宿本陣の百瀬家と脇本陣の志村家は広大の敷地を有し庭園の素晴らしさから「善光 寺道名所図会」の中で「中山道に稀な名園」と紹介されていましたが鉄道の開通と火災によってその姿が失われました。 | ![]() 神明宮は、洗馬宿をはなれた右手の堤にあり、ここの産土神です。天照太神を祀っています。 義仲馬洗水は、太田の清水といいます。洗馬宿を出て左の方にあり、太田村のなかです。木曽義仲が馬を洗ったので、この名がついています。ここから18町いった西に元洗馬がありますが、木曽川にあづま橋を渡していて古道といわれています。 ここを流れる木曽川は、中山道の木曽川ではありません(いまの奈良川)。鳥居峠を水源にして、中山道本山宿の裏通りからここに出て、北流して各地の谷川が集まって大河となり、松本の西に流れ下ります。安曇郡の熊倉の橋あたりから犀川という名になります。 肘松が、洗馬を出て塩尻の方へ別れる坂口にあります。太さは8尺ほど、繁茂して四方に枝を垂れ、旅人の笠にふれるほどです。幕府からの沙汰として枝葉を払う事が禁止され、周辺の100坪ほどは租税を免除された除地になっているとのことです。 ここから桔梗が原で、東は塩尻あたりまで、西は木曽川端まで、北は松本のあたりまで広い広野が続きます。太平の世を楽しむ農民たちが耘耕に力を尽していて、いささか |
![]() も不毛の地はみえません。郷原までのあいだは人家がなく、休む木蔭もありません。暑い時の旅人は喉の渇きをしのぐ用意が必要です。この街道は、5、6月の頃には奥州南部あたりより牛の子を多く牽出しています。ほどなく郷原宿にでます。 ○筑摩 郷原 村井まで1里半、南北8町ほどの道路です。民家が多く、宿場の入口に唐松の大樹が2株あります。南東の方角(巽の方)に1町ほど列をなして松が茂り、朱色の鳥居をこえると稲荷の祠があります。郷原の産上神です。 郷福寺は、桔梗山白馬院と号し、真言宗京知恩院に属します。本堂本尊は大日如来、観音堂の正観音は、聖徳太子の作といい、信州百番のうち28番の札所です。薬師堂・聖天堂・山門・惣門などは焼失して仮殿になっています。 「野を横に馬ひきむけよほとゝきす はせを(芭蕉)」という句碑があります。 原新田村の入口に分れ道があり、石標に、「右京いせ道、左伊奈諏訪道」と書かれています。松本の方から来る人の分かれる場所です。上方のほうから善光寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい、甲州(山梨県)の元善光寺へ参詣し、そこから塩尻宿へ |
「善光寺道名所図会」の情報・データについて
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NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ「善光寺道名所図会」
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087001
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国立公文書館 デジタルアーカイブ「善光寺道名所図会」

洗馬宿を南から北に写真で記録しています。
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