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稲荷山宿(千曲市)

 稲荷山地区は天正12 年(1584)、上杉景勝がここに稲荷山城を築いた時に町並みが形成されたことに始まる。慶長7 年(1602)に中山道の伝馬制度が定められ、稲荷山は善光寺街道の宿場となった。
 この街道は、松本平と善光寺平を結ぶ物資輸送上の役割が大きく、稲荷山宿の天保13 年(1842)の諸商売の記録をみると、111 軒のうち旅籠屋は6 軒、茶屋が10 軒、多いのは太物(綿花・綿織物)を商う店が34 軒、太物と他の品を扱う店が10 軒ほどあり、太物を扱う商業地として栄えていた様子がわかる。
 稲荷山宿は、宝暦11 年(1761)に火災に遭いその後、防火のために道幅を5 間(約9m)に拡幅したといい、現在も表通りの道幅は広い。
弘化4 年(1847)の善光寺地震では、稲荷山宿の被害は甚大で、地震後の火災で町並みは焼失してしまった。この地震では、善光寺の御開帳の最中であったことから、住民のほかに善光寺参りの旅人が多数犠牲となった。
 明治以後、善光寺街道は「北国西街道」と呼ばれる二等道路となった。明治13年(1880)の記録によれば、稲荷山町の家数は463戸で、うち300戸が商業を主として営んでいた。また、163戸が農桑を営み農閑期には商業をしていた。商業が盛んであったことから、明治14年(1881)には稲荷山銀行(のちに第六十三銀行となる)が創業され、金融業も盛んであった。
 稲荷山は商業地として発展し、明治23年度(1890)の県町村課税格付けによると、長野町の一等、松本町の二等に次いで、稲荷山町は三等と、県内で主要商業地の地位を占めていた。
 明治以降は、江戸時代の綿業が衰退し、繭や生糸の取り次ぎが主となる商業地として賑わった。
 明治21年(1888)に直江津・軽井沢間の鉄道が開通し、同26年(1893)には信越線が東京まで全通した。また篠ノ井線も同35年(1902)に篠ノ井・塩尻間が全通した。北信の物
資集散地として繁栄を誇っていた稲荷山だったが、物資の大半が屋代や篠ノ井両駅に運ばれるようになり、駅のない稲荷山の商業地としての地位はしだいに低下するようになった。
 大正11年(1922)には、現八十二銀行の前身である第六十三銀行の本店が長野市に移転し、その後昭和4年(1929)には世界恐慌が起きて繭・生糸価格が暴落し、空前の不況が稲
荷山を襲った。
 こうした歴史を経た稲荷山地区には、現在、かつての賑わいをほうふつさせる大きな商家や蔵が当時のまま残り、江戸時代末期から明治・大正・昭和の町家や土蔵、茅葺屋根の
養蚕民家など多様な建物群(約200棟)が伝統的建造物群を構成している。
(出展:千曲市・千曲市歴史的風致維持向上計画)

「武水別神社にみる歴史的風致」
 武水別神社は、千曲川左岸の佐野さの川や更級川の扇状地端部に位置する。八幡やわた地区の中央にあり、「八幡宮」「お八幡さん」の名で親しまれている神社である。
 八幡地区は、奈良時代に「東山道」の支道が通り、平安時代の「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に記載される信濃国十郡のうち「更級郡小谷郷」に比定される。また八幡地区には、「郡」と呼ばれる集落があり、更級郡衙の存在が推定されている。平成の大合併により、更級郡はなくなってしまったが、奈良時代から続いた更級郡の中心的な地域である。
 平安時代後期以降は、石清水八幡宮(京都府)の荘園となり、その鎮守として八幡宮が勧請されたと推察される。戦国時代の天文22 年(1553)4 月に、上杉・武田の第1次川中島合戦が八幡地区一帯で行われた。永禄7 年(1564)には、上杉謙信が武水別神社に捧げた願文が「上杉家文書」に収録されている。
 武水別神社への交通路は、松本方面へ通じる一本松峠を越える街道(通称一本松街道)が武水別神社を通り、稲荷山宿で善光寺道に合流していた。八幡地区は、武水別神社を中心に参拝客のための旅館・料理屋・飲食店などの町屋が軒を並べた門前町として形成された町並みである。

「武水別神社の歴史と建物」
武水別神社は、延長5 年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に「武水別神社」と記載され、現在地の西側の山麓にあったと推定されている。現在地にいつ移ったのかについては不明であるが、境内に在る最古の建造物が摂社(せっしゃ)高良(こうら)社本殿(16 世紀前期の建築)であることから、室町時代後期には現在地に祀られていたことがわかる。社伝によると、安和年間(968~970)に、石清水八幡宮(京都府)から八幡三神を勧請し、中世以降「八幡宮(はちまんぐう)」と呼び、江戸時代の宝暦7年(1757)に「武水別神社」と改めたという。
現在、境内はケヤキの大木からなる社叢となり、長野県天然記念物に指定され、厳粛な雰囲気を感じさせる。南側の大鳥居をくぐり、下乗橋から境内に入ると、廃仏毀釈前の神宮寺に係る唯一の建物「神輿休(みこしやすめ)」と呼ばれる茅葺寄棟造の建物(江戸時代前期の建築)があり、その隣に摂社高良社本殿がある。参道を進み中鳥居をくぐると、左手に酒造祖社(しゅぞうそしゃ)などの摂末社があり、正面に勅使殿(舞台)・拝殿・本殿へと続く。本殿の右手に御新宮・額殿、左手に社務所・御供所があり、背面には十二神社などの摂末社がある。本殿は、天保13 年(1842)の火災で焼失後、嘉永3 年(1850)に諏訪の宮大工(みやだいく)立川和四郎富昌(たてかわわしろう とみまさ)によって建てられた間口5間、奥行6 間半の大規模なものである。部材や壁面に多数の彫刻が施されていることが特徴である。正面蟇股には犬親子・猪、両側面中備には亀に乗る仙人(廬哈ろごう仙人せんにん)・鶴に乗る仙人(費長房仙人(ひちょうぼうせんにん))、妻の虹梁を支える力士、脇障子の桐・鳳凰・雲・麒麟、蟇股の牡丹・翡翠・雀・鶉など動植物の彫刻で飾られている。

(出典:千曲市歴史的風致維持向上計画(千曲市))

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