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松本宿(松本市)

平田~多賀神社
【信府統記】
 「信府統記(しんぷとうき)」七と三十一の巻(『新編信濃史料叢書』第五・六巻)には、出川の様子がつぎのように記されています。
 城下から村井に向かって行くと、田川(たがわ)に長さ17間(約30m)幅2間2尺の橋が架かっていてこの橋を「出川の橋」という。この橋は松平直政(なおまさ)の代に本町の問屋倉科七郎左ざ衛門(くらしなしちろうさざえもん)がかけたが、現在は藩が普請にあたっている。橋の南は出川組、北は庄内(しょうない)組から人足が出て川除普請(かわよけふしん)にあたる。
この道の右に多賀(たが)大明神の祠がたっている。
 出川町村の西側に小さな観音堂がある。そこをでると西側に指(差)矢場(さしやば)がある。東西30間南北110間で、寛文(かんぶん)11(1671)年から延宝(えんぽう)4(1676)年に間に出来た。三方の土手に松が植わり並木になっている。側に大明神の小祠がある。
 出川には「多賀大明神」と「犀口水引大明神」の二社がそれぞれ別にあって、上記のうち前者は「多賀大明神」、後者「大明神」は「犀口水引大明神」を指しています。この二社は、旧版『松本市史』によると、氏子たちが戸田氏の代になって寛延(かんえん)元(1748)年に幕府へ願い出、宝暦(ほうれき)元(1751)年に許可を得て、現在の多賀神社の場所へ合祀移転したといいます。
先に紹介した『信府統記』の記事はそれ以前の出川の様子を描いています。
(城下町探訪21 2009/8/20)
 
【多賀社白山社諏訪社双殿】
 当社は古来より、信濃国筑摩郡出川町にそれぞれ鎮座していた多賀社・白山社・諏訪社が合祀され現在に至っています。多賀・白山の合殿(二間社流造)の本殿は、寛延4年(1752)現在地に遷座の際に造営された社殿です。
 近江・加賀・信濃それぞれの一ノ宮の御分霊がいつの頃からこの地に鎮祭されていたかは定かではありませんが、それ故に遍く御神徳を仰ぎ、氏子のみならず各方面からの参拝者も多く、毎年例祭には数万人の参拝者により大変な賑わいをみせています。
 昨年松本市に於いて、当社の南部を震源とし、局地的な直下型地震が発生し、社務所半壊、境内石造物全壊という未曾有の災害に見舞われましたが、本殿・拝殿・神楽殿等の主要建造物は、無傷でありました。まことに神慮に耐えない災害を経て、氏子各位の赤誠により、本年例祭に併せ復興の佳節を迎えることができました。
(多賀社白山社諏訪社雙殿(長野県) 白山社めぐり(117) http://www.shirayama.or.jp/hakusan/yashiro/y117.html
住所:長野県松本市出川町9-1

【出川差矢場跡】
 中距離を射る射術を差矢(さしや)といい、遠距離を射るものは遠矢(とおや)といいます。また、近世では通矢(とおしや)に使う矢のことも差矢と呼びました。通矢では京都三十三間堂でおこなわれたものが有名ですが、そこでは座った状態で六十六間(120m)を南から北に向かって射ました。
 江戸時代には矢数を競うことが盛んにおこなわれ、昼夜射続ける大矢数、半日射続ける日矢数、百射、千射などで記録の更新を競いあったといいます。これは江戸でもおこなわれました。出川ではどのようにおこなわれていたかわかりませんが、矢場の広さが東西30間南北110間あったといいますから、通矢の訓練をするには十分な広さでした。
 また、火縄銃の射的もおこなわれたとみえ、多賀神社に享和(きょうわ)元(1801)、文政(ぶんせい)13(1830)年、天保(てんぽう)2(1831)年、元治(げんじ)元(1864)年に奉納された的の大きさや的中の様子を書いた額が残っています。
(城下町探訪21 2009/8/20)
【大慈堂】
 大慈堂(だいじどう)は松本三十三番の札所の九番で、御詠歌(ごえいか)は「ながれ行く 末はあまたに分かるれど ひとつ実りの 水のみなかみ」です。
 ここにまつられている仏像は、木造十一面観音立像です。鎌倉末の形式をもつ室町時代の作ではないかとみられています。ただ昭和初年に京都へ大修理に出され彫り返されているため、下半身にのみ原型をとどめているといわれています。(『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第2巻歴史編上)
 この大慈堂へ入る道端には高札場が
ありました。それを示す標柱がたっています。
(城下町探訪21 2009/8/20)
住所:長野県松本市出川町3-13
 
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