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松本宿(松本市)

 松本城下は、城郭を中心として計画的に造られた南北に長い城下町です。丁字路をはじめ、道路を意図的に交差させた「食いちがい」、昔の土蔵などの錠前を開ける鍵の形に似ている「鉤の手」など、複雑に構成されています。現在でも、「一方通行」や「細い道」が多く、当時の様子を残す街並みが残存しています。
 町割は、女鳥羽川の北側にあたる松本城の周囲を上級武士の武家地として、堀の外側を中級以下の武家地にしました。そして、川の南側と善光寺街道(北国西街道)沿いを町人地とし、その外側に寺社地を置くことで、外敵に備える町割としました。
 村井宿から北上した善光寺街道は、出川(間宿)経由で松本城下に入り、博労町~本町と北上して女鳥羽川にかかる千歳橋(かつては木製の大手橋)の手前で東に折れ、中町を東に進み、北へ向きをかえて女鳥羽川にかかる大橋を渡って東町に入ります。しばらく東町を北上して和泉町から安原横丁を通り萩町で城下を抜けます。城郭や三の丸等の武家地を迂回するために、一直線ではなく、大きく東西に迂回しながら町人町を北上しています。
 城下の町人地は、「親町三町(本町・中町・東町)、枝町十町、二十四小路」と呼ばれて、旅籠などの宿泊施設や物資流通の拠点として問屋や大店が軒を連ねており、商都として活況を呈していました。
 松本市には、現在の住居表示から消えてしまった町名がいくつもあり、市教育委員会は、江戸時代から昭和初期までにあった町名の記憶を残すため、昭和62年から平成18年にかけて「旧町名標識(旧町名碑)」を130本余り製作し、該当する場所に建てました。旧町名標識には、江戸時代末期の旧町名については細長い石柱を、昭和時代初期の旧町名については板状の石材を使用しており、その町名由来も記されています。
 松本は、信州の中心に位置しており、現在の「本町通り」には、「善光寺街道」と「千国街道」、「野麦街道」の結束点となっている交差点があり、善光寺街道と野麦街道が接続する現在の本町と伊勢町の交差点にある「牛つなぎ石」は、商都松本のシンボルとなっています。
 善光寺街道は、松本城下を抜け、北隣の岡田宿を抜けると、刈谷原峠、立峠、猿ヶ番場峠の当時では険しい峠越えをして善光寺平に入っていきます。
松本中町
善光寺道名所図会

「善光寺道名所図会」の情報・データについて

  • NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ「善光寺道名所図会」

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087001

  • 国立公文書館 デジタルアーカイブ「善光寺道名所図会」

https://www.digital.archives.go.jp/img/4323948

松本城下町の町名.jpg
松本城下町の町名
平田~多賀神社
出川宿(間宿)
袖留橋(緑橋)~本町(千国街道起点)
中町
横町~元原町

南からに松本城下に入り北に抜けるまで北国西街道(善光寺街道)に沿って写真で記録しています。

【多賀社白山社諏訪社雙殿】(多賀神社)

鎮座地:長野県松本市出川町9番1号
御祭神:多賀社 伊邪那岐命・伊邪那美命、白山社 菊理媛命、諏訪社 建御名方命
例祭日:9月10日(宵祭)、11日(例祭)
氏子数:600戸

 当社は古来より、信濃国筑摩郡出川町にそれぞれ鎮座していた多賀社・白山社・諏訪社が合祀され現在に至っています。多賀・白山の合殿(二間社流造)の本殿は、寛延4年(1752)現在地に遷座の際に造営された社殿です。
 近江・加賀・信濃それぞれの一ノ宮の御分霊がいつの頃からこの地に鎮祭されていたかは定かではありませんが、それ故に遍く御神徳を仰ぎ、氏子のみならず各方面からの参拝者も多く、毎年例祭には数万人の参拝者により大変な賑わいをみせています。(白山比咩神社:白山社めぐり~社報

○ 「信府統記」に記された出川

 「信府統記統記」七と三十一の巻(「新編信濃史料叢書」第五・六巻)には、出川の様子がつぎのように記されています。城下から村井に向かって行くと、田川に長さ17間(約30m)幅2間2尺の橋が架かっていてこの橋を「出川の橋」という。この橋は松平直架の代に本町の問屋倉科七郎左衛門がかけたが、現在は藩が普請にあたっている。橋の南は出川組、北は庄内組から人足が出て川除普請にあたる。この道の右に多賀大明神の祠がたっている。出川町村の西側に小さな観音堂がある。そこをでると西側に指ると西側に指(差)矢場がある。東西30間南北110間で、寛文11(1671)年から延宝4(1676)年に間に出来た。三方の土手に松が植わり並木になっている。側に大明神の小祠がある。
 出川には「多賀大明神」と「犀口水引大明神」の二社がそれぞれ別にあって、上記のうち前者は「多賀大明神」、後者「大明神」は「犀口水引大明神」を指しています。この二社は、旧版「松本市史」によると、氏子たちが戸田氏の代になって寛延元(1748)年に幕府へ願い出、宝暦元(1751)年に許可を得て、現在の多賀神社の場所へ合祀移転したといいます。先に紹介した「信府統記」の記事はそれ以前の出川の様子を描いています。

(出典:城下町探訪21/2009.08.20

○ 出川の一里塚跡

 出川は、村井宿にあった一里塚からほぼ1里のところにあたり、ここにも一里塚が設けられていました。一里塚は、徳川家康が秀忠に命じて慶長9(1604)年に江戸の日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に榎を植えた塚を築かせたことから、全国に広がっていったといいます。植えられた木は松の場合もありました。
 出川の一里塚の跡は、村井の方から来ると田川に架かる柳橋の手前の右手にあって、標柱と石碑が2基たっています。 

(出典:城下町探訪21/2009.08.20

○ 出川番所跡

 ここに戸田氏時代の初期に17年間、番所が置かれました。
 水野時代には藩領であった塩尻組は、享保11(1726)年戸田氏が入封すると幕府領になりました。幕府領となった塩尻に隣接している村井と出川に番所が設置されました(岡田にも設置)。
 番所では米穀・塩・麻荷・材木などの物資の出入りや人改め(特に女性)や馬の通行などを監視しました。寛保3(1743)年に、幕府領は松本藩が預かりことになりました。そこで、翌延享元年に番所は水野時代の場所に戻すことになり、村井と出川の番所は廃止されました。

(出典:城下町探訪21/2009.08.20

○ 中田家

 江戸時代に出川組の名主や大庄屋を務め酒造業を営んだ中田家は、その住宅2棟が松本市の重要文化財に、庭園が長野県名勝に指定されています。住宅の一棟は、御殿とよばれる書院造りの建物で、藩政時代には藩主の遠出のさいの小休所になり、また、明治13(1880)年の明治天皇巡幸の際にも小休所になりました。貞享年間に諏訪・高遠領内から良材を求めて建築されたと推定されています。
 もう一棟は明治23(1890)年に新築されたもので、本棟造の大規模なものです。間口・奥行きとも10間あり、軒が高い瓦葺の豪壮な造りです。柱には欅の良材が使われています。
 庭園は広さ587平方メートルで、池には鶴島・亀島があり、中央部に石組みの滝を配置し,そのほかの石の配置も堂々としています。築山には楓、榎、杉、松などの樹木が植わり、水・石・樹木の調和がみごとな庭です。御殿の建築と同時期の作庭とみられていて、貞享年間の池泉廻遊式庭園の姿を今に伝えています。昭和44年に復元工事がなされました。(『新編松本のたから』)○ 中田家
 江戸時代に出川組の名主や大庄屋を務め酒造業を営んだ中田家は、その住宅2棟が松本市の重要文化財に、庭園が長野県名勝に指定されています。住宅の一棟は、御殿とよばれる書院造りの建物で、藩政時代には藩主の遠出のさいの小休所になり、また、明治13(1880)年の明治天皇巡幸の際にも小休所になりました。貞享年間に諏訪・高遠領内から良材を求めて建築されたと推定されています。
 もう一棟は明治23(1890)年に新築されたもので、本棟造の大規模なものです。間口・奥行きとも10間あり、軒が高い瓦葺の豪壮な造りです。柱には欅の良材が使われています。
 庭園は広さ587平方メートルで、池には鶴島・亀島があり、中央部に石組みの滝を配置し,そのほかの石の配置も堂々としています。築山には楓、榎、杉、松などの樹木が植わり、水・石・樹木の調和がみごとな庭です。御殿の建築と同時期の作庭とみられていて、貞享年間の池泉廻遊式庭園の姿を今に伝えています。昭和44年に復元工事がなされました。(『新編松本のたから』)

(出典:城下町探訪21/2009.08.20

○ 大慈堂

 大慈堂は松本三十三番の札所の九番で、御詠歌は「ながれ行く末はあまたに分かるれどひとつ実りの水のみなかみ」です。ここにまつられている仏像は、木造十一面観音立像です。鎌倉末の形式をもつ室町時代の作ではないかとみられています。ただ昭和初年に京都へ大修理に出され彫り返されているため、下半身にのみ原型をとどめているといわれています(『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第2巻歴史編上)。
 この大慈堂へ入る道端には高札場がありました。それを示す標柱がたっています。
(出典:城下町探訪21/2009.08.20

○ 差矢場跡

 中距離を射る射術を差矢といい、遠距離を射るものは遠矢といいます。また、近世では通矢に使う矢のことも差矢と呼びました。通矢では京都三十三間堂でおこなわれたものが有名ですが、そこでは座った状態で六十六間(120m)を南から北に向かって射ました。江戸時代には矢数を競うことが盛んにおこなわれ、昼夜射続ける大矢数、半日射続ける日矢数、百射、千射などで記録の更新を競いあったといいます。これは江戸でもおこなわれました。
 出川ではどのようにおこなわれていたかわかりませんが、矢場の広さが東西30間南北110間あったといいますから、通矢の訓練をするには十分な広さでした。また、火縄銃の射的もおこなわれたとみえ、多賀神社に享和元(1801)、文政13(1830)年、天保2(1831)年、元治元(1864)年に奉納された的の大きさや的中の様子を書いた額が残っています。

(出典:城下町探訪21/2009.08.20

 

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○ 本町 -松本城下のメインストリート-

 大名町が武士の町のメイン道路なら、本町(ほんまち)は町人の町のメイン道路です。
 本町には有力な町人が住んでいて、藩でもその人達に町の大事な仕事を任せていました。倉科氏が任された「本陣」や「問屋」、今井氏が任された「使者宿(ししゃやど)」といった公の建物もこの町にありました。
 商人達の中には、各地から商品を集めたり、それを分けて各地へ送り出したりする問屋をやって大きく商売をしている人もいました。
 本町には西から伊勢町がつながり、その角には「牛つなぎ石」があって、一月の飴市の時には今も多くの人で賑わいます。また、東の方からは中町や生安寺小路(しょうあんじこうじ)(今の高砂通り)や鍋屋小路(今の「あがたの森」から来る通り)が繋がっていました。

(出典:国宝 松本城 - 松本城をより楽しむ公式ホームページ-

○ 博労町と十王堂 - 馬のお世話をする博労たちが住んでいた町 -

 博労町(ばくろうまち)は松本城下町の一番南の町です。南から来た旅人は、薄川(すすきがわ)に架かった橋を渡って城下町へ入りました。
 馬の世話をして荷物を着けた馬を引いて歩く仕事をする人を「ばくろう」といいました。この町には、ばくろうが多くいたので、この町の名となったといいます。松本の町へ荷物が入ったり出たりする拠点になっていた様子が偲ばれます。
 町の南、薄川の橋に近いところに十王堂(じゅうおうどう)が立っていました。この十王堂は城下町の南を守るために、天守を造った石川氏の時代に造られたといいます。十王というのは、地獄で死んだ人の裁判を行う仏です。閻魔大王を中心にして10の仏がいるので十王といいます。現在お堂は無くなってしまい十王もいませんが、地獄へ落ちた人々を救う役目をもった石で造ったお地蔵さんが大切にまつられています。寛永20年(1643)という年号が入った石造物もあります。
(出典:国宝 松本城 - 松本城をより楽しむ公式ホームページ-

○ 極楽寺

 北林山極楽寺は浄土真宗のお寺で、親鸞聖人の弟子海野重広(うんのしげひろ)が小県(ちいさがた)に開いたと伝えられています。武田信玄によって島立(松本)に移り、戸田康長の代に本町1丁目に移り、水野忠職(みずのただもと)の代、明暦3年(1657)に本町5丁目の現在地に移ったといいます。
 極楽寺の北の道は天神小路とよばれ、深志神社へ通じる道です。その道と極楽寺の間に天神馬場という馬場がありました。
 極楽寺の南は長沢川が流れ、そこにかかる橋は「袖留橋(そでとめばし)」と呼ばれていました。現在は緑橋という名になっています。

(出典:国宝 松本城 - 松本城をより楽しむ公式ホームページ-

○ 牛つなぎ石

 本町と伊勢町の交差点、岐阜からの野麦街道と善光寺街道が交わる場所にあり、高さ70cm程の梓川水系の安山岩です。戦国時代、上杉謙信が塩を甲信地方に送ったという言い伝えがあり、その時に塩を運んできた牛がつながれた石であるとしてこの名があります。
 建てられた年代は分かっていませんが、松本城下町が建設される際、松本城の東側にあった中世からの町屋が本町に移された際に、牛つなぎ石も移されたといわれています。昭和40年(1965)刊行の『東筑摩郡松本市・塩尻市誌』に掲載されています。

○ 中町 -商店が並ぶ中町、食いちがいの道で城下の守りも-

 女鳥羽川の南にある、東西に長い通りが中町(なかまち)です。江戸時代には、本町・東町とともに、親町三町(おやまちさんちょう)と呼ばれ、松本城下町の大事な町の一つでした。善光寺へお参りに行く人達が通る道でもあったので、中町の道は善光寺街道とも呼ばれていました。
 江戸時代には、今と同じように、お店で物を売る商売をする人達や物を作る職人さん達が店を出していました。
 通りを歩くと、土蔵(どぞう)造りのお店が目に入ります。これは明治時代に続いて起きた火事から学んで、燃えにくい建物として土蔵を造ったことによります。 中町へは、いくつかの道が交わります。そのうち北側から交わる道を注意して見ると、北へ抜ける道が南側から来る道とずれていることに気がつきます。これは「食いちがい」という道の付け方です。突き当たったら先に道がない「丁字路(ていじろ)」という道の形とともに、敵兵が簡単に城に着くことが出来ないようにした、城下町の守りの仕組みです。
(出典:国宝 松本城 - 松本城をより楽しむ公式ホームページ-

○ 善光寺街道

 塩尻市の洗馬宿で中山道から分かれた道は、村井宿・出川と来て松本城下に入ります。その後、岡田宿から山越えにかかり刈谷原峠を越えて会田宿に至り、さらに立峠を越えて嶺間の青柳宿・麻績宿を過ぎ、猿ヶ番場峠を越えると善光寺平に入ります。その後、稲荷山宿を経由し篠ノ井で北国街道と合流します。さらに北上して丹波島宿を経て善光寺にいたるのが善光寺道の道筋です。
 松本城下の経路は、博労町・本町と北上して大手橋の手前で東に折れ、中町を東に進み、北へ向きをかえて女鳥羽川にかかる大橋を渡って東町に入ります。しばらく東町を北上して和泉町から安原横丁・縦丁を通り萩町で城下をぬけました。三の丸を迂回して町人町を通行しています。

○ 東町

城下の東にあるところからついた町名です。本町・中町とともに親町三町のひとつでした。
(1)規模
 「信府統記」には、南北長さ6町32間半あるいは6町24間で、道幅は3間半、家数は165軒であった、女鳥羽川に大橋がかかり、その北側には同心番所が置かれ木戸もあった、東町からは東へ山家小路、正行寺小路(町番所)、塩屋小路(町番所)、作左衛門小路(町番所)が通じ、西からは馬出し小路、二ツ井戸小路(木戸)、小路(木戸上馬出しカ)が通じていた、と書かれています。
 また、年次不詳ですが水野時代の様子を記した「松本市中記」には、長さ10丁59間、幅3間7尺、家数163軒、番人2人の町番所が5ヶ所、同心番所1ヶ所、自身番3ヶ所があると記されていて、番所の数は他町と比べて一番多い数になっています。

(2)元禄10年の様子
 元禄10年の「東町家並絵図」(『松本市史』第4巻旧市町村編I)から、水野氏時代の様子をみましょう。
 道の形ですが、現在の東町は、城東2丁目の信号がある場所は道が南北に直線になっています。ところが江戸時代には食い違いになっていて南北がまっすぐになってはいませんでした。そこに間口15間の庄屋の家があり、南からそこまでの家が本役を負担し、それから北の家々は半役を負担だったと記されています。
 松本町の町人たちは地子が免除されて年貢はありませんでしたが、伝馬役と人足役の負担が義務付けられていました。
 その負担割合(本役)は、間口6間にたいして1軒分が割り当てられました。寛文13(1673)年には、月の上旬は本町、中旬は中町、下旬は東町で勤めることを取り決めています。
 さらに、東西ともに岡宮方面から流れてくる水路が家の裏を流れていました。そこには石橋や板橋がかかっていました。東町の橋の数は、他の町にくらべて一番に多くあります。町の東側には畑があり、その畑は年貢地でしたので、年貢高も書かれています。中町にはなかったことです。
 先に東町にかかわる小路を紹介します。塩屋小路の名の由来となったのは塩屋があったから、また作左衛門小路は作左衛門の家があったからといわれますが、事実絵図には、塩屋小路の北に塩屋があり、作左衛門小路の南は庄屋の萩原作左衛門の家があって、小路の名の由来と一致します。
 町には、庄屋が2人居り、問屋が置かれ、また庄内組の地庄屋の家もあります。地庄屋というのは、町人が所有する田畑からの年貢の収納や土地に関する事務を行うために、寛永18年の堀田氏の代から置かれた役です。先に畑地の年貢高が書かれていることを紹介しました。それらは「松本分」「桐原分」と呼ばれた土地でしたが、それに関した事務をあつかった役です。

 家々の大きさは、3間間口が一番多く、続いて2間、4間、6間の順になります。3間以下の間口の家は87軒で、全体の6割弱を占めています。この傾向は中町とほぼ同じです。
 家々の業種で目につくのは、旅籠屋が14軒あることです。東町が松本のなかで宿の中心的な役割をしていたことを示しています。それに伴うものか酒屋も数が多いです。また、発掘した地点では、16世紀末から17世紀前半には南北に区割りされていたことを示す遺構があり、17世紀中ごろ以降現在の形と同じ東西の区分けに変わってきているようです。

(3)火災と水害
  -省略-

(4)旅籠屋
【郷宿】
 松本の城下には、郡所・町所・預所など行政上の役所があり、支配地の村々から請願や訴訟に村役人がやってきました。それらの人々の手続きについての相談や滞在する場合の宿泊のために「郷宿」が設けられていました。この郷宿が多かったのが東町でした。元禄9年の記録では、本町では4人、東町では23人の名が上がっています(『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第2巻歴史下)。
 これら東町の名前を前述の元禄10年の絵図と対比してみると完全に一致はしませんが、絵図に旅籠屋とある家の当主や職業記載がない家の家主の名に同名人を見出します。したがって、東町の旅籠屋はもちろん、旅籠をしていない者のなかにも村々から出てきた村役人の相談にのっていた人々がいたようです。
 郷宿の人々は関係役所の役人とも連絡がとれ、訴訟などの手続きにも通じていたため、村方役人にとっても都合のよい存在でした。

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