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北国西脇往還
(北国西街道・善光寺街道)
街道・宿場
北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)は信濃国に存在した脇往還で、長野県のほぼ中央部を南北に19里20町(約80キロ)、12の宿場と3つの峠で結ばれた、古くからの庶民の道・信仰の道です。
洗馬で中山道と分かれた後、松本城下を経て山間地に入り、街道最大の難所である猿ヶ馬場峠を超えて善光寺平の南端(稲荷山宿・桑原宿)に至り、丹波島で北国街道に合流します。中山道と北国街道を連絡し、松本藩や松代藩、善光寺へ向かう道のひとつとして整備され、当時は賑わいを呈しました。
「善光寺道名所図会」があり、松尾芭蕉の「更科紀行」はこの道の紀行文です。この Web は、北国西脇往還の宿場町を中心に、写真により往時の様子を偲ぶとともに、現在の様子を伝えます。
松本宿(松本市)
松本宿_04・中町
塩尻市の洗馬宿で中山道から分かれた道は、村井宿・出川(いでがわ)と来て、松本城下に入ります。松本城下の経路は、博労町・本町と北上して大手橋の手前で東におれ、中町を東に進み、北へ向きをかえて女鳥羽川にかかる大橋を渡って東町に入ります。しばらく東町を北上して和泉町いずみまちから安原横丁(やすはらよこちょう)を通り萩町(はぎまち)で城下をぬけました。
三の丸を迂回して町人町を通行しています。
松本の宿は、博労町(ばくろうちょう)から安原町(やすはらまち)を宿場としていました。旅籠は、主に東町(ひがしまち)にありました。松本町は千国街道や野麦街道などの起点でもあり、中馬の発着地として各地から様々な物資も集まり、各地へ運ばれていく、交通運輸や商業活動の中心地でした。
松本の宿の北には岡田宿があり、山越えにかかり、刈谷原(かりやはら)峠を越えて会田(あいだ)宿に至り、さらに立峠(たつとうげ)を越えて、青柳宿、麻績(おみ)宿を過ぎ、猿ヶ番場(さるがばんば)峠を越えると善光寺平に入ります。
その後、稲荷山宿を経由し篠ノ井で北国街道と合流します。さらに北上して丹波島(たんばじま)宿を経て善光寺にいたるのが善光寺道の道筋です。
(城下町探訪 37 2009年12月10日)
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![]() | ![]() | ![]() 【一ツ橋小路】(ひとつばしこうじ) 松本 市中央3-448-2先(中央3丁目3番14号付近) |
![]() 【一ツ橋小路】(ひとつばしこうじ) 中町から一ツ橋に通じる小路で宮村町とはくいちがいとなっている。 古よりこの小路は肴店でにぎわい、藩御用達の商人はここを通って東門から城内へ入ったという。 | ![]() | ![]() 【中町】(なかまち) 松本市中央3丁目4番21号はかり資料館前 城下町親町の一つで、「中町ハ外町之為中故中町ト号ス」(故実伝連記)とあり、善光寺街道の道筋であった。 犀川通船開通(天保三年・1832年)の頃は、船も遡行していたので、塩・肴問屋が軒を連ねていた。 |
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![]() | ![]() 【横町】(よこまち) 松本市中央3丁目4番 中町通りと大橋通りの交差点、北西カドの広場にある。 江戸時代、善光寺道は本町から中町に入り、下丁・中丁・上丁を通り、女鳥羽川に架かる大橋を渡って東町へ抜けた。 上丁を北に折れ、大橋までに至る短い道筋周辺では、この道筋を中町と呼ばず、横町と呼び慣わしていたことがあり、「信州松本図写」(文化十三年・1816年)には「横町」と記されている。 昭和初年に現在の大橋通りが開通し、かつての景観は無くなってしまった。 ※この碑は、中町一丁目商店街によって建てられました。 | ![]() |
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