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北国西脇往還
(北国西街道・善光寺街道)
街道・宿場
北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)は信濃国に存在した脇往還で、長野県のほぼ中央部を南北に19里20町(約80キロ)、12の宿場と3つの峠で結ばれた、古くからの庶民の道・信仰の道です。
洗馬で中山道と分かれた後、松本城下を経て山間地に入り、街道最大の難所である猿ヶ馬場峠を超えて善光寺平の南端(稲荷山宿・桑原宿)に至り、丹波島で北国街道に合流します。中山道と北国街道を連絡し、松本藩や松代藩、善光寺へ向かう道のひとつとして整備され、当時は賑わいを呈しました。
「善光寺道名所図会」があり、松尾芭蕉の「更科紀行」はこの道の紀行文です。この Web は、北国西脇往還の宿場町を中心に、写真により往時の様子を偲ぶとともに、現在の様子を伝えます。
桑原宿(千曲市)
善光寺街道を稲荷山宿から麻績・松本方面へ向かうと、猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ)への登り口にある集落が桑原宿で、峠を越えた麻績宿と稲荷山宿の間の宿として寛永元年(1624)に伝馬屋敷が設置された宿である。元禄7年(1694)には、屋敷数77 軒のうち、46 軒で伝馬役を務めていた。
松代藩では、桑原宿を他領への出入り口として重要視しており、また松代藩の家臣の継立があった。
幕末の元治元年(1864)には、松代藩士佐久間象山が京都へ行く途中、まず桑原宿の関家で一泊してから上京している。関家には、主屋はじめ長屋門・巡検使門が当時のまま残っている。
ほかにも、通りに面して格子戸やうだつを設けた建物が江戸時代の宿場をしのばせている。
桑原宿に接した、猿ヶ馬場峠登り口の集落が中原地区である。
中原地区には、通りに面して造り酒屋の和田酒店の長屋門、それに続く漆喰塗りの土塀が続き、塀の中には酒蔵や貯蔵所、文庫蔵などの建物群や、「善光寺道名所図会」(天保14 年(1843)出版)に描かれている見事な枝ぶりの赤松も望める。
西部山地の山麓である八幡の郡から中原地区には、「八幡の七清水( 七頭)」と呼ばれる湧水群があり、豊富な湧水が湧き出している。
この湧水は、三みつ峰山みねさんの山腹に湧き出したもので、中原の頭無・郡の頭無・山の神・小滝沢・桜清水・嘉暦・大池の弁財天の7か所の湧水群である。大池の弁財天の湧水は、姨捨の棚田一帯の農業用水として江戸時代から使われている。また、嘉暦・郡の頭無・山の神の湧水は、現在市営水道の水源に利用されている。
こうした湧水群は、西部山地の豊かな自然環境によって涸れることなく、現在も千曲川左岸の山腹斜面での水田耕作や生活用水、酒造りなどに使用されている。
(出典:千曲市の維持及び向上すべき歴史的風致(千曲市))
![]() 豊富な湧水に加えて良質な水であること、山麓斜面の棚田での米の生産が増加したことなどから、元禄2 年(1689)に造り酒屋「和田酒店」が創業 | ![]() |
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![]() | ![]() 和田家の歴史 信濃の御家人、和田石見入道佛阿の末裔であり、当地方の豪族和田弾正正俊の四世孫、和田三郎右衛門 正成の次男和田興惣右衛門が分家し、七頭の清水を引き入れ酒造業を興す。 江戸期には松代藩屈指の豪農、酒造業として繁栄し苗字帯刀を許されていた。また、中原神楽に、代表される如く、当地方の文化の導入、普及に関与した。 なお、前庭の老松「七曲の松」は、「善光寺道名所図会」、(天保14年刊)に紹介されている。 幕末から明治期にかけて佐久間象山、伊藤博文、東郷平八郎、有栖川宮熾仁親王などと親安が深かった。銀行の設立、小学校の建設、信州りんごの導入等、当地方の近代化の中心的役割を担った。 |
![]() | ![]() 長野銘醸酒蔵 善光寺街道沿いの桑原宿外れの中原(八幡地区)に元禄2年(1689)創業とする和田酒店を前身とした酒造所である。 現在、約58,000 ㎡の敷地に、江戸末期に建てられた土蔵造り2階建て約530 ㎡の酒蔵をはじめ、貯蔵蔵、米蔵、粕蔵のほか、大正5年(1916)に建てられた事務所などの建物があり、今も酒造りが行われている。 |
![]() | ![]() 千曲市内では、唯一の造り酒屋 |
![]() 長野銘醸・酒蔵(歴史的風致形成建造物) 建築年:江戸、構造:木造2階建 (写真奥の白壁の建物) | ![]() |
![]() 長野銘醸(株)・アカマツ 推定樹齢500~600年、周囲2.3m、樹高15m 天保14年(1843)豊田利忠著による「善光寺道名所図絵」に記載されている有名な松で現在立っている松の根もとに古い切株が二つあり根は続いているが両方とも現在のものより太い。 | ![]() 三峰山系の自然が豊かな良質な湧水を利用して作られる酒米と、仕込み水が同じ水を使っている酒造りは数が少なく、ここでの酒造りの大きな特徴である。 |
![]() 長野銘醸・長屋門(歴史的風致形成建造物) 建築年:江戸、構造:木造2階建 | ![]() 長屋門に続く漆喰塗りの土塀 |
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![]() | ![]() 桑原宿の背後には佐野山がある。 この佐野山は鉄の山で、古い地図には「たたら山」とあり、佐野川の川床は赤褐色。 |
![]() | ![]() 街道は佐野川沿いを下る 街道沿いのブドウ畑脇にある道祖神 |
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![]() | ![]() 天満宮_1 菅原道真公を祀る。道真は儒者の家に生まれ一文章生から、右大臣まで累進し、宇多・醍醐天皇に重用された。余りの出世に妬む者が多く、藤原時平の讒言により九州の太宰府に左遷され、2年後の延喜3年(903)、59歳で侘びしく没する。 その後、御所の清涼殿が雷火で焼失し、時平一派に異変が相次ぐと、迷信深い平安貴族は、晩年が悲惨であった道真怨霊の祟りと恐れ、本官に復し太政大臣の官位まで贈る。さらに天神として北野神社に、また、後世は学問の神として祀り、全国的に信仰された。 本天満宮は、中世、当地を支配した地士桑原氏の先祖が、古谷の館の近傍へ長徳4年(998)に、鎮守として創建したといわれる。御神体は坐像で98cm、恵心僧都の作(寄せ木造り、先年修復)の伝承がある。 |
![]() | ![]() 天満宮 桑原宿西の入り口に長福寺がありその境内の一角に有ったが、廃寺(長谷寺に併合)でなくなった。 しかし、その後住民の熱意で現在の場所に再建し、菅原道真公を祀り、今では合格祈願を始め新年のお参り等区民のよりどころとなっている。 |
![]() 天満宮_2 佐野薬師の裏山台地に天神堂(3m四方)がある。天満宮が古谷から下り、元禄2年(1689)には本村の街頭へ下がっている。元長福寺の東北遇、現在地である。佐野はその時代の跡であろう。長福寺が別当として管理し、雷よけの守護札を発行していた。 明治41年、政令で末社以下と天神像は治田神社に合祀された。信心深い人々は忍びず、すでに社殿は取り壊されたていたが、長福寺へ移し仮安置する。その長福寺が、昭和38年廃寺となり、本尊地蔵菩薩と共に塩崎の長谷寺へ併合され、地蔵菩薩は長野市宝、客仏として遇される。 しかし、帰座を願う当区では天満宮再建委員会を組織し、佐野・西両区民の寄進の浄財により、新装なった神殿に同50年4月、長谷寺より遷座された。流転の歴史をたどったが、昨今は従来の信仰に加え、受験生の合格祈願など益々崇敬されている。 | ![]() |
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大正5年(1916)建築の事務所棟はじめ12棟の登録有形文化財の建物があり、現在その建物で酒造りが行われている。
酒蔵は江戸末期の建築で、梁間6間、桁行24間ほどの木造二階建ての土蔵造りの建物であり、洗い場・上槽場・仕込蔵に分けられている。
米蔵から運び込まれた白米が洗い場で洗米され、隣接の釜場で蒸された蒸米は二階の麹室で3日間、酒母室で21日間ねかされた後、一階の仕込蔵で仕込みが行われる。
このほかに江戸末期の建物には、貯蔵蔵・米蔵・粕蔵・西納屋・東土蔵・西土蔵及び、善光寺街道に面して建つ長屋門がある。
その後建てられた建物には、明治前期の文庫蔵、明治40年(1907)の東納屋、大正10年(1921)の南蔵がある。
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