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村井宿(松本市)

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取材:2015年10月31日
HP update:2021年11月8日

 村井宿(むらいじゅく)は、北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)の洗馬宿から2番目の宿場で、慶長19年(1614年)頃に開かれました。
 松本から一里二十町、郷原宿へ一里十二町、宿場の長さは五町九間、町割りは一戸分の間口六間、奥行二十間から三十間で、上町、中町、下町に別れ、本陣問屋旅籠屋が並び宿場の南端には神明宮が鎮座し、北端が鉤の手になっていました。元禄年間の記録では、家数は元禄8年(1695年)には82軒を数え、そのうち旅籠は15軒でした。
 また松本藩と天領(塩尻代官所)の境界にあり口留番所が設けられていました。(天領が松本藩預地になると本山宿に移転)。
 明治20年、27年の二度の大火により当時の姿を失いましたが、本陣「中村家」など一部に昔の建物が残り、町割鉤の手・用水路には、昔の面影を残しています。

村井宿
善光寺道名所図会
善光寺道名所図会_murai_001

○ 筑摩 村井  村井宿は、松本へ1里半、南北6町ほどの宿場通りです。民家が多く、町裏にも散在しています。宿の入口左側に神明の杜があり、ここの本居神です。伊勢両皇太神を勧請し、例祭は6月16日、神主は永持越中といいます。  ここから西3丁の社の中に椿太明神社があります。祭神は猿田彦命で、天正18庚寅年(1590)豊臣家の時に六石の地に属せられました。例祭は6月15日です。村井を出て富士見橋側に次のような句碑があります。  「信濃なるふじ見橋をこゆる日ハ、雨ふりて山みな雲にかくれたり 霧しくれ富士を見ぬ日そおもしろき はせを」(芭蕉)  この句は、芭蕉翁の袖日記にあり、東海道の句です。疑ってみれば、橋の名がめでたいことを思ってここにあげたのではないか、この場所から富士山を見ることができないからです。

善光寺道名所図会_murai_002

それより平田村を越し、間宿(あいのしゅく)の出川町(いでがわまち)にでます。長さ4町ほどの宿場です。また、新長屋という村を経て筑摩川(いまの薄川)の橋を渡って松本の馬喰町(博労町)に入ります。

「善光寺道名所図会」の情報・データについて

  • NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ「善光寺道名所図会」

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087001

  • 国立公文書館 デジタルアーカイブ「善光寺道名所図会」

https://www.digital.archives.go.jp/img/4323948

村井宿を南から北に写真で記録しています。

村井宿_南
村井宿・南
村井宿_北
村井宿・北

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