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北国西脇往還
(北国西街道・善光寺街道)
街道・宿場
北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)は信濃国に存在した脇往還で、長野県のほぼ中央部を南北に19里20町(約80キロ)、12の宿場と3つの峠で結ばれた、古くからの庶民の道・信仰の道です。
洗馬で中山道と分かれた後、松本城下を経て山間地に入り、街道最大の難所である猿ヶ馬場峠を超えて善光寺平の南端(稲荷山宿・桑原宿)に至り、丹波島で北国街道に合流します。中山道と北国街道を連絡し、松本藩や松代藩、善光寺へ向かう道のひとつとして整備され、当時は賑わいを呈しました。
「善光寺道名所図会」があり、松尾芭蕉の「更科紀行」はこの道の紀行文です。この Web は、北国西脇往還の宿場町を中心に、写真により往時の様子を偲ぶとともに、現在の様子を伝えます。
村井宿(松本市)
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取材:2015年10月31日
HP update:2021年11月8日
村井宿(むらいじゅく)は、北国西脇往還(北国西街道・善光寺街道)の洗馬宿から2番目の宿場で、慶長19年(1614年)頃に開かれました。
松本から一里二十町、郷原宿へ一里十二町、宿場の長さは五町九間、町割りは一戸分の間口六間、奥行二十間から三十間で、上町、中町、下町に別れ、本陣、問屋、旅籠屋が並び宿場の南端には神明宮が鎮座し、北端が鉤の手になっていました。元禄年間の記録では、家数は元禄8年(1695年)には82軒を数え、そのうち旅籠は15軒でした。
また松本藩と天領(塩尻代官所)の境界にあり口留番所が設けられていました。(天領が松本藩預地になると本山宿に移転)。
明治20年、27年の二度の大火により当時の姿を失いましたが、本陣「中村家」など一部に昔の建物が残り、町割や鉤の手・用水路には、昔の面影を残しています。

善光寺道名所図会
![]() ○ 筑摩 村井 村井宿は、松本へ1里半、南北6町ほどの宿場通りです。民家が多く、町裏にも散在しています。宿の入口左側に神明の杜があり、ここの本居神です。伊勢両皇太神を勧請し、例祭は6月16日、神主は永持越中といいます。 ここから西3丁の社の中に椿太明神社があります。祭神は猿田彦命で、天正18庚寅年(1590)豊臣家の時に六石の地に属せられました。例祭は6月15日です。村井を出て富士見橋側に次のような句碑があります。 「信濃なるふじ見橋をこゆる日ハ、雨ふりて山みな雲にかくれたり 霧しくれ富士を見ぬ日そおもしろき はせを」(芭蕉) この句は、芭蕉翁の袖日記にあり、東海道の句です。疑ってみれば、橋の名がめでたいことを思ってここにあげたのではないか、この場所から富士山を見ることができないからです。 | ![]() それより平田村を越し、間宿(あいのしゅく)の出川町(いでがわまち)にでます。長さ4町ほどの宿場です。また、新長屋という村を経て筑摩川(いまの薄川)の橋を渡って松本の馬喰町(博労町)に入ります。 |
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「善光寺道名所図会」の情報・データについて
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NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ「善光寺道名所図会」
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100020/ht087001
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国立公文書館 デジタルアーカイブ「善光寺道名所図会」
村井宿を南から北に写真で記録しています。
村井宿・南
村井宿・北
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